なぜ連載漫画は、結末未定のまま始められるのか
たまに聞かれることに、世にある多くの連載漫画は、結末が決まっているのですか?と言うものがある。
バッチリ決めている人もいれば、予定外のタイミングで連載終了する可能性を考え、いくつかのエンディングのパターンを作っている人もいる。
でも、新人の場合は、3話くらいのネームで、連載会議に通るので、開始時点で結末のことまで考えてない、と言うこともよくあるのではないかと思う。
結末を決めないで始められるなんて、と疑問に思うかもしれないが、物語の構造を考えると、それほど不思議なことではないと感じる。
ストーリーとは一体何か?
ストーリーとは、主人公が切望した何かを、手に入れるまでの道筋だ。どんな物語も、主人公が最後に何かを手に入れる。
バッドエンドで、不幸になる物語もあるだろう。でも、その場合も、望んだもの、以外の答えが手に入る。
ストーリーが長くなるほど、長く時間をかけないと手に入れられないものになる。コルクの創作6箇条の第2条、その人が知りたくてやまない「問い」を見つける。
手に入れるものは大抵の場合、「問い」の「答え」だ。漫画家が、その答えを、最初から分かり切っていたら、むしろそのストーリーを描く必要はないのかもしれない。
主人公が求めるものの答えを、主人公とストーリーを共にして探していく。だから、連載の最初から、手に入れるべき答えは、分からないのがむしろ普通だ。
代わりに欲求のベクトルが必要
とは言え、答えに向けて見当違いの方向へ進むわけにはいかない。そこで必要なのが、主人公の渇望だ。欠落と言ってもいい。
主人公が何かを求めて欲しい。それは恋人でもいいし、お金でもいい地位や名誉でもいい。どうしても欲しくて仕方のない何か。
そういう欲求さえあれば、いずれ何らかの答えは手に入る。欲求と答え(=テーマ)はセットだ。
連載の冒頭に、主人公の強い欲求さえあれば、おそらく何かは手に入るのだろうなと、その安心感があるからこそ、連載を始めることができる。
渇望は、主人公を主人公たらしめる
渇望を描くと、主人公も唯一無二の人間になる。本当の愛とは、何か? その問いへの答えを得るのにふさわしいのは、世界で1番、本当の愛を知りたいと願う人間だ。
本当の愛を知りたい、と、世界で2番目に願っている人に、あえて答えを渡す意味は無い。
渇望こそが、主人公を主人公たらしめ、終わりの見えない道だとしても、歩み始める原動力になるのだと思う。
3行まとめ
できごと
マンガ専科で渇望の話をした
感情
興奮
気づき
答えの予感で、人は進める