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3行日記を100行日記に変えて気づいたこと

というわけで、前回から3行日記を100行日記に変えてみた。そのことによって気づいたことが早速いくつかある。

自分の見えてなかった思いが、どこまでも隠れているものだなと思った。

まず、僕はそもそもコンテンツとして、3行日記を面白いものと思えてなかったのだ、と言う事。

そしてその前に、自分が出すものは全てコンテンツだと思っている、という大前提も、無意識的に持っていたのだと気づいた。

3行のフォーマットが難しすぎるという気づき

面白いものを書くためのフォーマットではないのだから当たり前なんだけれども。

もし仮に3行で、自分も人も読んで重みのあるものにするならば、もはやそれは575の俳句や川柳に近しい。

たったの3行で、今日の出来事、感情、気づきをまとめると言う事は本当に難しい。そこから受け取れるものを作ろうとしたら、なおさらだ。

先日の振り返りで、この日記は自分だけのものでなく、チームメンバーの指針にもなるとわかったし、そうなると、何かを受け取ってもらうために、本当に整えきった洗練した言葉にする必要があるだろう。

できたら素敵だけど、ちょっと続けるにはきつい…

でも3行日記の思考プロセスは良い感じ

誰に届けるのかが決まって、ある程度楽しく得るものがあるようにしたいと考えると、自然とその日1日の中で1番印象に残った感情に目が行く。

何に1番心が動いたか、その小さな感動を伝えたい。

これは僕がもともと漫画家で創作に慣れているからこそ、この順序で考えるのかもしれない。

3行日記は、このプロセスを強制させる力があると思う。創作に慣れてなくとも創作に近しい、思考プロセスを踏むことができる。

印象的な出来事によって、心が動き、気づきがある。気づきがあるなら、その人の世界はちょっとだけ変わったことと同義だ。

これは創作そのもの。とはいえ何度も言うけど、3行にまとめるのはちょっと難しい…

全てが小さなコンテンツ

創作気質の人は、もしかしたら小さなポスト1つでも、コンテンツと捉えてしまうのかもしれない。と言うのも気づきだった。

一つ一つが、小さな作品と考えると、このSNSの世界はとても素敵な気もするし、逆にちょっと大変だなとも思える。

会話と捉えるのか、それとも作品か。この微妙な境界線が、一つ一つのポストにある。そういう視点で見ると、SNSはまた面白いなと思った。

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ごとう隼平
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